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弥生時代の米作りと現代の米作りはどう違うの?

小学生11歳 うーまさん

うーまさんが知っている今の水田は、畦(あせ)で規則的(長方形)に区画され、1枚1枚の面積が広い水田だと思います。これはコンバインなどの大きな機械が使えるようにするため、もともと起伏があった地形を平にならして作ったものです。所によっては、川や池がない高い土地に、井戸を掘って水をくみ上げる水田もあります。しかし、このような水田は今から30〜35年くらい前になって作られるようになったものです。それ以前は地形に合わせて畦で区画したため、水田1枚1枚の形が違い、面積も狭いものでした。現在でも山間部で「棚田(たなだ)」などと呼ばれているところにみられます。
 弥生時代の米づくりと機械化された後の米作りを比較すると、あまりにも違いが大きいので、本格的に機械化される以前の米作りと弥生時代の米作りを比較することにします。
 発掘調査された弥生時代の水田は、畦によって小さく区画された水田が多く、水路、せき堰、水口(みなくち)などの灌漑施設(かんがいしせつ)も整っていました。機械化以前の水田とそれほど変わるところはありません。弥生時代は木製の農具が多かったのに対し、現在は刃(は)の部分が鉄製の農具が多いという違いがあります。
 弥生時代と現在の米作りを比較する際に、考えなければならない点が二つあります。一つは苗代(なわしろ)を作って苗(なえ)を育ててから田植えをしたのか、籾(もみ)を直に水田に播(ま)いたのかという点です。もう一点は、稲刈りの際、根本で刈ったのか、穂(ほ)のすぐ下で刈(か)ったかという点です。
 まず第一点目ですが、ご存じのように、現在は苗代で種籾(たねもみ)から苗を育て、ある程度の大きさになってから田植えをしています。弥生時代にはどちらの方法をとっていたのかについては、学者の間でも意見が分かれています。以前は水田に籾を直(じか)に播いていたというのが定説でした。しかし、最近の発掘成果で、水田の跡から稲株(いなかぶ)が発見され、弥生時代に田植えが行われていたのではないかという学説が出てきました。田植えをする時には、稲の苗をひとまとめにして植えるので稲株ができますが、直播(じかま)きでは、苗が1本1本バラバラに生えるため、稲株はできません。まだまだ検討の余地はありますが、稲作が日本に伝わった当時から、田植えが行われていたという学説が優勢のようです。しかし、弥生時代の水田すべてで田植えが行われていたかどうかはわかりません。
 第二点目は稲の刈り方ですが、弥生時代は石包丁(いしぼうちょう)という道具が現れます。これは稲の穂の部分だけを刈り取る(「穂摘(ほつみ)刈り」という)道具と考えられています。また、現在では品種改良が進んでおり、1枚の水田で稲が実る時期がほぼ同じですが、品種改良が進んでいなかった弥生時代には、1枚の水田でも穂によって実る時期がまちまちだったと思われます。こうした時、実った穂だけを刈る穂摘み刈りは有効な方法となります。このことから、稲の穂の部分を刈っていたという説が有力です。
結論をまとめますと、弥生時代の米作りは、大形機械をつかうようになる前の米作りと、水田の作り方や水の管理の仕方などで、大きな違いはないということです。木製の道具を使っていたのが、鉄の刃をつけた道具に変わったというのが大きな違いです。ただし、弥生時代には、田植えをせずに稲籾をじかに撒いたり(可能性としては低い)、稲を穂の部分で刈り取っていたかもしれないということです。

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